『日計り』刊行10周年記念サイト

カラスおじさん

 
  私たちが新宿駅の片隅で営業しているビア&カフェ・ベルクは、狭いながら毎日千人以上のお客様に利用して頂いています。その殆どは常連さんです。どなたもお顔をよく存じ上げています。ただお顔だけ。お名前は、ごく一部のお客様を除けばわかりません。ご年齢やご職業も身なりからだいたい想像のつく方は多いですが、はっきりしません。接客時間がお一人様につき30秒が限度の店。ご注文を伺い、お釣りの確認をするのでやっとです。だから以前、私たちに立ち退きを迫った家主JRに対して営業継続の請願書を提出した時、2万名以上の署名が集まったのは本当にビックリでした。お一人お一人にちゃんとお名前があって(笑)。しっかり確かめさせて頂きました。
  そのくらい慌ただしい店ですが、たまに30秒の限度を破るお客様もいます。写真のこの方もその一人。昔からの常連さんですが、やはりお名前は存じません。私たちはカラスおじさんとお呼びしています。店ではいつもお客様という訳ではなく、近況報告だけして帰ることもあります。注文するにしても「ただにしろ」とか、余計な一言が必ずあったり(笑)。以前はカラスを連れて上のアルタ前広場で商売していました。通行人の肩や手にのせて料金をとるのです。また落としものの傘を集めて、雨の日に売ったりしていました。うちにはよくナンパした若い女の子を連れ込んで手相を見ていました。
  広いお屋敷にカラスを何羽も飼っている。白いカラスもいる。タイに嫁と娘がいる。もうすぐ癌で死ぬ。…おじさんの話はどこまで本当かわかりません。しばらく姿を消すこともあります。その度、タイに帰ったのか、癌で亡くなったのかと心配になりますが、先日も何年ぶりにひょっこり顔だけ見せてくれました。

(2014.6)