井野碩哉のアルバム





11.1.21

井野碩哉と私



1960年(私が生まれた年)、アメリカとの軍事同盟=安保に反対する33万人の市民が国会を取り巻いた映像などを見るたび、心情的には私も取り巻く側にいるのだが、取り巻かれた国会の中にうちのじいさんと岸信介とガードマンしかいなかったという話は知らなかった。爺さんの自伝によれば、226事件を想起し、死を覚悟したそうだ。


じいさんと岸さんが無二の親友同士というのはよく聞かされていた。死に際、じいさんは岸さんの手を握りしめたという。私もじいさんの誕生日の席で、このA級戦犯(と、つい左翼的に?お呼びしてしまうが)と握手したことがある。今や歴史上の人物だ。


じいさんも東條英機内閣の閣僚だったため、戦争責任を問われ、処刑されることを覚悟していた。自伝には、米軍に拉致された日に家族と「最後の別れ」をしたことが淡々と語られている。胸に迫るものがあるが、ウィキペディアには、賀屋興宣とうちのじいさんが拘置所で囲碁を楽しんでいたエピソードも紹介されており、大物だったんだなーと思う。農林大臣というポストが幸いしたのか(農林大臣の立場から、「米がもたない‥」と戦争に消極的発言をしたというあくまでも身内の証言もある)、じいさんは戦犯にならなかった。監禁生活は一年に及んだが(横浜刑務所→大森の俘虜収容所→巣鴨拘置所)、釈放された。


自分のじいさんとは言え、知らないことばかりだ。自伝を残してくれたことに感謝している。日本橋の兜町で産声を上げたとか、へぇと思う。金融市場のど真ん中じゃん!当時(明治24年)は下町情緒も残っていたらしいが。井野家は元々三重の酒蔵だったというのも目を引く。今でも残っているのだろうか?じいさんの両親がそこを飛び出したあたりから、自伝は始まっている。


私にとってはただのじいさんと言いたいところだが、幼い頃から雲の上の存在だった。国会の質疑で女性問題を追及され毅然とした態度で答えたとか、新宿紀伊國屋書店の創業者田辺茂一と女をとりあったとか、長男(井野隆一)が共産党に入党し、やめてくれと土下座したとか、酒好きで甘いものにも目がなかったとか(父はそれを味音痴とバカにした)、子供心にもそれらのエピソードを微笑ましく頼もしく聞いたが。三重の亀山にお国入りした際には、幼い私も同行し、地元の新聞の一面に一緒に載ったらしいがよく覚えていない。また私が小学校の頃運動会をボイコットし、じいさんがただオロオロして、あんなじいさんを初めて見たと母は言っているが、幽かにしか覚えていない。


私自身の思い出らしい思い出と言えば、大学浪人時代にじいさんの家の離れに一年間居候させてもらい、最晩年のじいさんと毎日夕食をともにしたことくらいだ。当時じいさんは86、7だったとは言え、十代の私にはまだまだ威厳がありすぎで、面と向かうと汗がやたら吹き出た(すぐ後ろでヒーターがガンガンについていたからだろう)。「暑いのか?」と聞かれたこともある。まあでもほとんど無言の食事だった。「天皇陛下の夢を見た」と言ってご機嫌な日もあったが。今だったら色々なことが聞けるのに!ただテレビが常に爆音状態で(耳が遠かったから)、会話どころではなかった。横には、世間的には「お妾さん」の実質的奥様Jさんがいらした。


うちのばあさんはどこだったかと言うと、精神病棟でベッドに縛られていた。むしろ私はばあさんとの思い出のほうが豊富だ。幼い頃、とても可愛がられたので。人と会うたび、私の肌のきめ細やかさを自慢した。男の子としては複雑だった。母には、よくばあさんの操縦法を聞かれた。勿論、ばあさんが私の言うことを聞くのは私が孫だからだ。既にボケが少し進行していたばあさんを小学生の私はよくからかった。それがばあさんのツボにはまったようだ。ばあさんの葬式の日、喪主の挨拶で私は母と私たち兄弟以外誰もばあさんを見舞わなかったと親戚をなじった覚えがある。


じいさんは死後の配慮もした人だから、Jさんはきっとどこかで不自由なく暮らしたのだろう。ただ、じいさんの葬式でお焼香の長い列の最後にJさんがいるのを見つけ、今し方まで身近で献身的にふるまう姿が目に焼き付いている私としては、何とも言えない気分になった。後に戸籍制度に疑問を持つ最初のきっかけだったかも知れない。10年近く前、迫川と地下鉄に乗っていたら、Jさんをお見かけし、声をかけると涙を流して喜んで下さった。Jさんは昨年、百いくつかでお亡くなりになったと風の便りで聞いた。


じいさんの家の階段を上ると(このお屋敷は今はもうない。ただ夢には細部まではっきり出てくる)、正面に中村彝の描いたヒーじいさんの肖像画とヒーばあさんの肖像画が並んで掛かっていた。頼まれて描いたものだろうし、当時は誰の作品とも思わなかった。「エロシェンコ像」で衝撃を受けるまでは。ムービーでは、その肖像画もご覧いただける。新宿中村屋の裏の2階にまだ「一介の貧乏画家」として暮らしていた彝は(中村屋のご主人夫妻は多くの芸術家を支援した)、じいさんのお兄さんと仲がよく、その関係で絵を描いてもらったらしい。じいさんは一週間自分の父親の写真を持参し、彝はじいさんの顔と写真を見比べながらヒーじいさんの肖像画を描いた。またヒーばあさんの肖像画は、モデル自ら2週間通って完成した。


新宿ステーションビル(現ルミネエスト)は、うちのじいさんと幼なじみの浜野一郎(茂)が2人でつくった日本最初のショッピングモール駅ビルだ。じいさんは初代社長になった。自伝に、駅ビルの3原則があげられている。


一、地元の中小企業を圧迫しない。
二、駅ビルを利権の対象としない。
三、公共性を尊重する。


今でも守られてほしい理念である。






(井野朋也)






井野碩哉と戦争



11.2.15





祖父、井野碩哉の自伝「藻汐草」で、歴史的資料としての価値があるのは、やはり日米戦争(第二次世界大戦)に関する記述だろう。じいさんは元東條内閣閣僚という戦争を始めた側の人間だから、戦争については何を語っても言い訳にしかならん。と思う。例えば、軍の暴走を苦々しく指摘するが、止められなかったんかい?!とツッコミ入れたくなるし。ただ、戦争の背景には「昭和恐慌」があり、それは私も歴史の基礎知識として頭にある。自伝ではこう語られている。軍とは、つまり農村のせがれたちなのだ、と。自分の家族がいくら米を作っても米が食べられない。姉妹が身売りして家族を支える。そんな状況に彼らは「動揺し」ていた。じいさんは、当時の政治について「政府は無為無策で、政党は己れの権益をむさぼることのみで国政を顧みない。特に政友会と民政党は政権争いに血道をあげ、国政の大綱である経済問題、特に農村問題が悪化の一路をたどりつつあっても、放置状態であった」と嘆く。


じいさん自身はどうだったか。一言でいえば、「統制経済の旗手」で、業界の反発にあいながら市場への介入をあれこれ試みる政治家だった。「民間に自由放任にすると、生産は計画どおりに進まず、配給も公平を欠く。」とは言え、どう手を打っても焼け石に水なのが恐慌の恐慌たるゆえん。


満州国建国には直接関わらなかったが、不況打開になればと期待し、ある程度効果があったと評価もしている。確かに、満州国は急激に増加する貧困農民の受け皿にはなったろうが、一方で「日本国内における青年将校たちの不満のはけ口のあらわれであった」ことも無視できない。軍は満州国の内政に干渉し、中国への侵略を進めていった。自伝にもはっきり「侵略」とある。軍のクーデターであった、とも。軍が他国に足を踏み込れたのだ。そりゃいきさつはどうあれ、外から見れば(内から見ても)りっぱな「侵略」だろう。


中国への侵略をやめない日本を欧米は叩いた。日米戦争をかいつまんで説明すればそういうことになる。そりゃ、ヨーロッパだって植民地があったわけだし、国家どうしで領土をとりあったわけだから、日本だけを悪者にするのはおかしいかも知れない。が、近代戦の実態が無差別大量虐殺であることに変わりはない。国家にどんな「思い」や「事情」があろうとも、殺されるのはその土地の住民であり、徴兵された兵士たちである。だから私はあらゆる国家に対して戦争反対の立場をとる。


そのことを踏まえた上で、じいさんの自伝を読む。興味深い点はいくつかある。まず、じいさんが戦争に消極的だったのは確かだ。戦前、これは「極秘情報」だったらしいが、近衛首相とアメリカのルーズベルト大統領の太平洋上の会見が予定されていた。それが実現されていれば「と、私は今更ながら残念でならない。」じいさんの見解では、宋美齢(蒋介石夫人)の横やりが入り、それが会見が流れた「原因のひとつ」になった。「日本はなんだかんだ言ってるが、侵略戦争をやめる意志はありませんよ」と米国に吹き込んだというのだ。


とは言え、日本中がすでに開戦のムード一色だった。じいさんはそれも戦争の原因にあげている。政治家として無責任な態度にも思えるが、まあファシズムとはそういうものだ。どんなに正論っぽく思えても、世の中がそれで一色になるということ自体、危険なことだ。今の日本にもその気配はある。気をつけねば。


しかし、総理に陸軍大臣の東條英機が任命されたのが何より決定的だった。彼を推薦した木戸幸一に、じいさんは真意を尋ねた。陸軍大臣なら軍の意向に従う、しかし総理なら他の色々な意見に(当然、交渉論もあった)耳を傾けなければらならない。それで「彼の開戦論の矛先が鈍るのを狙ったのさ」というのが木戸のよみだが、はずれた。


また開戦について、じいさんは昭和天皇に農林大臣として意見を求められている。「3年間はだいじょうぶであります」と答えてしまった。いや、全閣僚が天皇にはっきりと反対意見を述べられなかった。自分たちの責任だ、とやけにしおらしい。天皇崇拝者だったせいか、どうも天皇には何の非もなかったとかばっているフシもある。私が反天皇制だからそう思うのかも知れないが。


敗戦直後、臨場感あふれるシーンがある。ラジオで戦犯容疑者の指定発表があった後だ。知人に「大事なときに使ってください」と渡されたものがある。何だかわからないけどありがとうと礼を言って、帰宅してくつろぎながらあけてみると青酸カリだった。その夜、じいさんは役人時代からの恩人、石黒忠篤に電話している。ラジオでは、まさに文相が青酸カリで、厚相が割腹で自殺したことが報じられていた。私も今、と相談したのだ。石黒は「馬鹿野郎!」と怒鳴り、開戦前から閣僚をしていた人間が何を考え何をしたのか、堂々と説明してから殺されればいいと叱ったという。


獄中のエピソードは、不謹慎だがモノクロ映画を見るようだ。ここでどのくらい拘束されるか、じいさんと賀屋興宣は賭けをしている。二人は何かと言えば賭けをした。敗者が勝者にタバコ(1日3本支給される。ちなみに銘柄はラッキーストライク)を譲るのだ。賀屋は「まあ、十年ぐらいだろうね」とあっさり答えた。じいさんは楽観論者賀屋らしい発言と思った。当然、刑死を覚悟しているからだ。しかし百歩譲って「終身懲役」とした。


そんなことで気をまぎらわせなければいられないほど獄中生活は退屈だった。じいさんが獄中で賀屋や巨人軍オーナー(読売社主)の正力松太郎と碁に明け暮れたのは有名な話だ(その棋譜は、雑誌「棋道」に掲載された。完敗の正力は掲載をしぶったが、じいさんは正力の弱点である「女」をつかって了承させたとか書いてある)。尤も、碁盤と碁石を差し入れてもらうまでが大変だった。アメリカの将校にジェスチャーまじりで伝えなければならなかった。


夜は賀屋のいびきに悩まされた。本人に了解をもらい、彼の足に紐を結んだ。寝台は離れていた。賀屋がいびきをかきはじめると、じいさんは紐をひっぱった。いびきは一時休止した。


話題が尽きると女の話になった。ある日、賀屋がさっぱりした顔で「井野君、女に会ったよ」と言う。「どこで?」‥そのまま引用する。「いや、女の理髪屋なんだ。やはり男とは違ったものを感じるなあ」賀屋氏は眼を細めて満足そうだった。今度は私の番だ、なんとなく胸が躍る。急ぎ足で飛び込むと、そこに六十近い婆さんが待っていた。やがて部屋に戻った私は、やはり女に接したという気持ちに充たされてきた。賀屋氏と私は、微笑してうなずき合った。‥


東條のピストル自殺未遂事件は狂言説が根強い.。しかし、じいさんは東條が医師に頼み心臓の位置に印をつけてもらったという話を獄中で本人から聞いている。死ねなかったことを「運が悪かった」と恨む東條に嘘はないとしている。


戦争から少しはなれたエピソードも2、3紹介しよう。


じいさんは最初、大臣のポストを「親の遺言」という理由で断った。よく使う手?いや、じいさんのお母さんが、息子の写真をある骨相学に秀でた高僧に見せたところ、「おもしろい骨相だ。大臣かそれぐらいの地位につく」と予言されたそうだ。お母さんは喜ばなかった。五・一五事件、二・二六事件で大臣が殺されるのを見ているから。死ぬ前に、農林次官になったばっかりのじいさんに「大臣だけにはなってくれるな」と言い残した。「心配はいりません。なれっこありませんから」そう答えたそうだ。


じいさんは、自民党の言わば娯楽組組長だった。元々、じいさんの両親は株の相場師(仲買人)。兜町で店を開いて当てた。ただ手数料だけでは経営が成り立たず、自ら相場を張った。使用人たちも右にならえで、一発儲けると一晩でパァ~ッと使った。ところがじいさんのお兄さんは厳格な人で、遅くなると店の戸を開けなかった。困り果てた道楽者たちは、幼いじいさんを連れ出すようになった。弟が一緒では、お兄さんもしぶしぶ戸を開けざるを得ない。幼いころから花街はじいさんの遊び場となるのだった。


大臣になって、みんながちやほやしてくれるのは悪くなかったが(そう思えるのも最初の一週間)、一番難儀なのは護衛をつけられたこと。自宅の門前に「交番のようなものをつくって、二人で日夜交代で番をしてくれる。車で行くときはいっしょに乗ってくる。そんな調子で護衛は一時も離れない。」だから夜遊びするには、護衛をまかなければならなかった。


気が合ったのは、道楽仲間の有馬頼寧。有馬記念の有馬さん。「殿様ながら、プロレタリア思想を理解し、庶民的で、日比谷公園の草むしりまでやった人」「貴族院議員だがリベラルな思想家」とじいさんは解説している。じいさんの自伝に「プロレタリア思想」という言葉が(好意的に)出てくるのにはビックリ。ただ昔は、体制側でも経済をやる人は‥特に「恐慌」問題は‥マルクスを避けて通れなかったというから、不思議ではないのか。


じいさんの道楽は酒や麻雀、芸者遊びだけではない。ゴルフにテニス、野球、競馬と多岐にわたった(自分でゴルフ場や競馬場をつくったほど)。ゴルフ発祥の地と言われるセント・アンドリュース・ゴルフ場(ロンドン)の前を通りかかったとき。じいさんは中に入り、いきなりゴルフをやらせてくれと頼んだ。案の定、予約でいっぱいだ。日本にゴルフを普及するからとか何とかダダこねて(日本ではまだ一般的じゃなかった)ゴルフ場のマネージャーを困らせた。隣の木戸幸一が機転をきかせ、「お昼休みはないの?」ときいた。お昼なら、つかの間あくとのことで、許可を得て、二人で飛ぶようにコースに出た。そこで棒がふれさえすればよかった。にもかかわらず、じいさんは木戸のゴルフにケチをつけている。「少しもミスがない」「面白みがない」と。ゴルフとは、相手の失敗に爽快感を覚えるものだ、と妙な持論(負け惜しみ?)を展開して。まあ、道楽者と言えば道楽者らしい。当たっても外れても豪快にいきたいのだ。日本人の身体にセント・アンドリュース・ゴルフ場は大きすぎた。なおさら木戸のゴルフはちまちま見えたのかも知れない。キャデーには子供と間違われたそうだ。昭和天皇はその話にメチャうけた。


井野碩哉は、国会で女性問題を追及された大臣としても有名だ。懇意の芸者さんがいて(晩年、事実上の妻になった)、大臣としてふさわしいことなのかと品位を問われたのだろうが(じいさんによれば、失脚狙いだった)、じいさんは「プライバシーの問題」と突っぱねた。更に「人情の上から、今更やめることもできない。東條氏からは、できたら別れてもらいたいという話があったが、私は別れるくらいなら農林大臣を辞めます、と言ったことがある」と開き直り。大臣より女をとるのか?不真面目だと問題にされてもおかしくないが、「おもしろい男」という評価に落ち着いた(失脚もしなかった)のは、人徳(キャラ)なのか?時代なのか?


じいさんのつくった競馬場とは、大井競馬場のことである。じいさんが初代社長だった。そのときの経験が、新宿駅ビル(現ルミネエスト)創設時にも生かされた。例えば、歩合制の家賃‥。競馬を運営するのは競馬場自身ではなく、公共団体とか地方団体。駅ビルで商売するのはテナント。テナントにしてみりゃ、家賃が固定でなく歩合なんて、商売なめてんのか!と言いたいところだ。じいさんはじいさんで、近くに停車場つくったり、公平な運営を心がけて馬主の信頼を得たり、全体のレベルアップにつとめた。売上も飛躍的に伸びた。必然的に競馬場の収入も増え、施設を更に改善・増設することができた。それなら(つまり、多く取られてもちゃんと還元されるなら)納得がいく。


じいさんから受けたアドバイスが一つだけある。よく遊べ。でなければ、よく働けない。じいさんの人生そのものを表す言葉である。




(井野朋也)





かっちゃんの遺品




11.2.9





井野家の5人きょうだい勢ぞろい‥


祖父に関するフォトムービー『井野碩哉(いのひろや)のアルバム』を本サイトに公開した翌日、偶然ですが、祖父の家のお手伝いさんだった「かっちゃん」の甥っこさんが、ベルクに「伯母の遺品」と数枚の写真を持ってきて下さいました。


祖父とその家族の写真でした。ムービーでご紹介するのは、そのうちの1枚。3人のお手伝いさんと、井野家の5人きょうだい(祖父の子供たち)。


祖父のお屋敷には、常時2~3人のお手伝いさんがいました。いわゆる「女中さん」です。私は友達によくからかわれました。「オボッチャマ~」と。彼女たちにそう呼ばれていたのです。お陰で、成人になる前に、自分がボンクラのおぼっちゃんであると自己認識することができたわけです。


祖父の自伝によれば、書生さん(男性)もいたようです。ただ私の知る限り、「嫁修行」(?)で適齢期の女性ばかり、ベルクのバイトのように入れ替わり立ち替わりいました。中でも別格だったのが、「かっちゃん」と「ちんばあちゃん」。結婚で抜けた時期もありましたが、祖父が亡くなるまでご縁があり、長く両横綱として君臨しました。


ちんばあちゃんは、父のオムツをかえたこともあるそうです。祖父や父には「ふさ」と呼ばれていました。父が付けた渾名らしい。本名は、確か「ひさ」。「ひさ」が言いにくくて「ふさ」になった。「ちんばあちゃん」は私の従姉妹マコちゃん(元ベルクスタッフでもある)の命名らしい。「ちんちん電車」から来ているのでしょう。


母によれば、ちんばあちゃんは裏表が激しく、祖父はそれを承知で、"にぎやかし"でいてもらった、とか。私も慕っていました。祖父がお屋敷にいるときは、ちんばあちゃんは祖父のまわりを「旦那様!旦那様!」とちょこまか動き回っていました。マコちゃんにとっては、お母さんを早くなくしたせいもあって、母代わりだったようです。


ちんばあちゃんもかっちゃんも鹿児島出身で、奴隷(嫁)生活から逃げ出すように上京したという話を耳にしたことがあります。二人っきりになると鹿児島弁丸出しで、祖父の家に泊まったとき、襖の向こうの寝床の二人の会話に聞き耳たてたことがあります。ベルクで朝お弁当売りしている名越さんと勝浦さんが(それぞれ迫川と社員の今の母親)やはりどちらも鹿児島出身で、陽気な女両横綱という感じもダブります。


かっちゃんは、本名がカズ。だからかっちゃん。でも私には、カバのかっちゃんでした。今、改めて写真で拝見すると、ずいぶん小柄で普通の女性なので、カバは失礼だったと思います。まあ私が小学校に行くか行かないかの頃の話です。お屋敷でかっちゃんと二人隠れん坊して、「鬼」になった私はかっちゃんをどう探しても見つけられず、泣きべそかきながらふと見上げたのです。階段のてっぺんから頬杖ついて笑ってこちらを見下ろしているかっちゃんの姿が、今でも時々よみがえります。


ムービーの写真の3人のお手伝いさん。かっちゃんとちんばあちゃん、あともう一人はどなたかわかりません(雅子おばさんから、たへさんと教えてもらいました。美代子おばさんがお嫁に行く時に連れていったそうです)。その横に、中学生だった私の父が、兄と2人の姉と妹と並んでいます。1940年代前半あたり(戦争に突入する頃)でしょう。青山にあったお屋敷の中庭でしょうか。5人きょうだい全員そろっています。この中で今ご存命なのは、一番下の雅子おばさんだけ。


写真の一番右にいる中学生の男の子が、私の父、昌次です。詩人になってからのペンネームが、井野利也。あるいは北野恭。5人きょうだいの下から2番目。ベルクの創設者でもあります。1981年に亡くなりました。54歳。私もついこのあいだ、父と同じ50代になりました。


一番左が、長女の美代子おばさん。祖父が亡くなってから井野家をしきっていました。女帝のイメージ。私の知る美代子おばさんはやせ細った野良猫のように精悍で、笑いながら睨む目に祖父の面影がありました。半蔵門病院の父の病室で、美代子おばさんの身の上話を聞いた覚えがあります。祖父の幼なじみだった浜野の家(息子)に嫁いだばかりの頃の苦労話でした。何しろ相手は女帝。私はまだ世間知らずの二十歳。幼いながら、反発心やら憧れを抱いていました。その美代子おばさんが私一人だけのために語ってくれる。誇らしいやらくすぐったいやら。臨終の父をほうったらかしにして。最後に何かの法事でお会いしたとき、「朋ちゃん、私、恋をしたいわ!恋を!」と声をふりしぼって訴えかけられたのを思い出します。


長男の隆一さんは、ネットで調べる限り、井野家で最も有名人。共産党に入党し、自民党の中枢にいた祖父が土下座してやめてくれと頼んだというエピソードは前回もご紹介しました。その後もなんだかんだとあって、井野家とは絶縁状態になりますが、父の葬儀で久々にお会いしました。喪主をつとめて下さって。それが私にとって最後の隆一さんでした。始終物静かな方でした。しかし、多数の著作を残されています。読まねば!


民子おばさんは、私の従姉妹というより二人の姉貴と言っていいほどよくいじめられ‥いえ可愛がってもらったマコちゃんチャコちゃんのお母さんです。若いうちに癌で亡くなりました。祖父は自伝に生涯で一番辛い出来事だったと書き、父は『昇天』という亡き姉に捧げた長編詩で「それでも尚歩き続ける」と絶唱しました。民子おばさんとは一度しかお会いしていない。いえ、厳密にはお見かけしただけです。お屋敷のサンルームにパジャマを着てぼーっと外を眺めて立っていらっしゃった。


妹って、どう?恋人?と思わず父にマイクを突きつけたくなる。そう、雅子おばさん。今は長野で友人たちに囲まれて暮らしてらっしゃいます。ベルク本も微笑ましく読んで下さったようです。先日のTBSの番組には「今時、気概のある番組!」とエールを送って下さいました。


それにしてもこの写真はどなたが撮ったのか。未確認のままです。もしかして、書生さん?それともかっちゃんの甥っ子さん?それとも、両者は同一人物?






(井野)





PADDOCK(大井競馬場)



11.2.18



大井競馬場には一度、迫川と行った。迫川は馬の美しさにいっぺんではまり、写真を撮りまくった。その中で一番輝いている馬に単勝狙いで賭けたら、大当たり(しかも3回連続)。「ビキナーズ・ラック!」とガードマンが祝福してくれた。今は競馬が複雑になりすぎ。競輪や競艇がすたれ、競馬だけが人気が衰えないのは、やっぱり馬だから、馬はよめないところがあるからと話がとまらないその日の夕食代を稼いだので、前から行きたかったスイカのシェフで有名なヌキテパで食事した。祖父の血は孫の私より迫川に流れているかも。



(井野)



写真&映像 by 迫川尚子
音楽 by 井野朋也


TCK(大井競馬場)

Ne Quittez pas ヌキテパ











井野碩哉

エロシェンコ像

戦後史のある断面‥

米国に敗れ、巣鴨の牢屋の中で岸信介(安倍の爺さん)は死を覚悟した。ところが私の爺さん(井野碩哉)が釈放され、突然自分も生きようと思った。爺さんの臨終の際、岸さんは飛んできて爺さんの手を握りしめた。安保に反対する20万人の市民に囲まれた時も、死を覚悟した二人だった。(ツイッターより)

井野碩哉の秘書、富田さん

上司を告発し、会社を首になった父に、駅ビル権力者(創設者)だった祖父(父の父)は「喫茶店やるなら、場所提供しよう。地下と3階どっちがいい?」と助け船を出した。横にいた祖父の秘書は間髪いれず「地下」と答えた。商売上、大正解だ。もし、その秘書が不在で、父だけだったら、「上の方が気持ちよさそう」とでも答えていたかも。
その秘書、富田さんといって、戦後まだ新宿駅周辺でヤクザの縄張り争いが激しかった頃、少なくとも駅ビルには一切手を触れさせないよう親分たちとじかにナシをつけた人だ。その証文がうちにはとってある。歴史的資料としていつかベルクにも展示しよう。私がベルクを始めてから、富田さんはよく客として覗きにきてくれた。
あの場所に父が店を出せたのは、祖父が権力を握っていたからだが、息子にも権利を持たせないと自分がいなくなってから店を続けるのは難しかろうと考え、祖父は父に莫大な権利金をビルに払わせた。その出所は祖父なのだろう。私の代でビルはJRに買収された。権利があろうがなかろうがJRはあらゆる手を使って店を追い出しにかかった。ベルクは、お客様の力(応援)で残った。
祖父なき後、富田さんは駅ビル子会社の社長になり、私がベルクを始めてからわりとすぐ亡くなった。その部下たちもルミネになってから全員切られた。私がヤクザだったら、復讐するところだろう。
富田さんには何かと世話になったが、いつでも男性陣の父や私より、女性陣の母や副店長をたてるところがあった。井野家は女性陣が主導権を握っているという認識だったのだろう(正解)。

2013.5.5店長ツイッターより


ベルク創設者、井野利也

ルミネ(JR)問題

井野碩哉が残したもの

祖父井野碩哉は身内にはあまり大きなものは残さなかったが、次のものを作った。大井競馬場、箱根レインボーカントリー倶楽部(ゴルフ場)、新宿ステーションビルディング(日本最初の商業駅ビルで現ルミネエスト)、清水(高級料亭)。さすが自民党娯楽組組長!みんな娯楽施設じゃん。清水以外は全部残っている。

清水は、祖父の2号さんが戦争で自分のお店を失った後、学費のない学生たちのために無料の学生寮をやっていたが、祖父が学生を世話するなら自分が儲けなければと彼女のために(自分はお金がないから、友人の岸信介や藤山愛一郎にお金を出させて)つくった料亭。中曽根康弘の内友会の本拠地等になった。今でも日本の政治は料亭で動くと言われるが、清水はその元祖だった訳だ。

料亭「清水」


箱根レインボーカントリー倶楽部


大井競馬場


新宿ステーションビルディング
(現ルミネエスト)



あと娯楽施設ではないが、祖父が設立したものに東京水産振興会がある。自ら社長になって経営にも積極的に参加したのは駅ビルと競馬場だけだが、「水産国日本」の実現に一生を捧げたいというのが祖父が濃商務省に入った動機であり、初心を貫くためだったようだ。水産物の無駄のない利用法を探るために。


日本の大女将

 
祖父は国会で2号さん問題を追及された時、「プライバシーの侵害」と突っぱねました。別に祖父をカッコいいとは思いません。おばあちゃんっ子だった私は、寧ろ複雑な気持ちです。しかし、そのエピソードだけでは可愛らしい芸者さんを囲ったというイメージですが、その2号さんと祖父は戦友同士みたいな関係でした。
今思えば、農村の貧困を何とかしたくて政治家になった祖父と、お金がない学生のために無料の宿を運営していたその芸者さんとの間には男女の仲を越えてひかれあうものがあったのではないでしょうか。私はその二人とたった一年ですが一緒に暮らしたので、なおさらそう思うのかもしれません。
祖父が死んで大分たってから、その芸者さんとは一度だけ地下鉄でお会いしています。私が気づいて、声をかけました。彼女はびっくりして喜んでくれましたが、ずっと泣きっぱなしでした。次の駅で降り、私は車両に残りました。今だったら、一緒に降りて色んなお話を伺うのに。その時、彼女は90近かった。100過ぎまで生きられましたが、遂にそれっきりになってしまいました。
彼女はかつて料亭「清水」の女将でした。「清水」は祖父が彼女のために方々からお金を集めてつくったお店です。自民党の議員たちの隠れ場所となり、日本の政治は料亭で動くとまで言われるようになりました。彼女が(井野家とは別に)開いた祖父の告別式には、中曽根を始め大物政治家たちが勢ぞろいしたそうです。そりゃ、日本の大女将ですもんね。

猫のハンスト


最近、祖父のお屋敷の離れに一人で居候した浪人時代のことをよく思い出します。友人からまだ大人にならない、鍵尻尾の白いメス猫をもらって、半年以上同棲しました。目がさめると、よく私の顔を覗いていました。青い目でした。友人に返したのは、祖父も女中さんたちも猫嫌いというのがわかったから。仕方なくでした。
数週間経って、猫が病気のようだ、お前に返してもらったあの日以来何も食べていないと友人に教えられ、急いで友人宅に向かいました。白猫はガリガリに痩せていましたが、私がしゃがんで名前を呼ぶとよろよろと立ち上がって、私の方にやってきました。そして私の手の甲をペロッと舐め、それから餌を食べ始めたのです。
あの半年間、殆ど外出しなかったので白猫とは寝ても覚めても一緒でした。友人に返す時、私はちゃんとお別れしたつもりでしたが、私の手の甲をペロッと舐めたのは今思えば許してあげるというメッセージだった(白猫は納得していなかった)気がします。しかし動物がハンストするなんて未だに信じられません。
36年も経つのでその頃のことは余り思い出さなくなりましたが、一つ記憶が甦ると次々に甦ります。誰にも気づかれずにすみましたが、離れで火事を起こしかけたこともありました。ストーブに被さった掛け布団が燃えだしたのです。白猫に顔を舐められて目がさめました。青い目でした。私は慌てて火を消しました。彼女は命の恩人でもありました。

米寿のお祝い


浪人時代、私は祖父の米寿を祝う会に参加した。祖父は幼少の頃から花街の芸者さんに面倒を見られて育ったそうだが、それに対する感謝を込めた演出なのか何なのか、高級ホテルの大広間で開かれたその会のオープニングでは、大勢の着物姿の芸者さんがスポットライトを浴びながら行進した。祖父が舞いを披露したのも覚えている。

その会には田中角栄や福田赳夫など歴代総理大臣も参加すると聞いて、興奮した。角栄は欠席だったが、お祝いの花があった。私は祖父に岸信介を紹介され握手した。小さなお爺ちゃんだった。この会には父も母も弟たちも参加したとてっきり思っていたが、最近母に確認したら参加したのは私だけとわかった。

確かにその会はいつもの祖父の誕生会(自宅かマイシティのレストラン「プチモンド」で開かれた)とは趣が違った。政界向けの会だったのだ。当時、私だけ祖父のお屋敷に居候していたので、声をかけてくれたのだろう。

自伝を読む限り、祖父は元官僚で政治家になるつもりはなかった。ましてや大臣にだけはなるなというのが祖父のお母さんの遺言だった。実際、農林大臣をまかされそうになった時、それを口実に断ったが、断りきれなかった。226事件があったから、お母さんにとって大臣とは殺されるものだったのだ。祖父自身、政治家であることにどこか居心地の悪さを感じている。

また祖父には二人の息子と三人の娘がいたが、その時代女性の政治家は考えにくかったし、息子たちも一人は共産党系学者、もう一人(父)は詩人で政治家になる者はいなかった。そもそも政治家は世襲制じゃないしね。

だから祖父は孫の私にも政治家になるかなんて一言もきかなかったが、その会に参加させたのは孫が政治家にならないという保証もない。なったらなったで、何か役に立つかも知れないと思って参加させてくれたのだろう。

勿論政治家にはならなかったし、今後もなるつもりはない(素質もない)が、こうして話のネタにもなるので参加してよかったと思う。その米寿の会の翌年に祖父は他界した。

2016.4

三代目同士

安倍ちゃん、バカとか甘く見ちゃいけないとか色々言われるけど、私には私に通じる臭いを感じてしまう。安倍ちゃんも祖父が大物政治家(私の祖父とは親友同士)のボンボンで、私程ではないにせよ政治家の器じゃない。寧ろベルクみたいな店やればボンボンの人のよさが生きるし、多少は謙虚になれるのに笑

井野朋也氏 安倍総理にリプライを送信する

井野邸

祖父の家に遊びに行くと、離れに従姉が練習用に使った箱形ピアノが埃をかぶったままあった。すぐ蓋をあけてでたらめにたたきまくった。ピアノは素敵に応えてくれた。今でもどこかで音楽がかかってピアノが鳴ると、あの蓋を開けた時のカビ臭さとキーの感触がよみがえる。あの離れに私を一気に連れ戻す。
祖父の生存中、政財界や皇室、親族といった関係者がひっきりなしに訪れた。井野邸はいつも賑やかだった。今、その屋敷や庭園はない。祖父の息子や孫は詩人だったり飲食店店長だったり‥維持できる訳ないw 母の家に僅かに名残がある。
このガラスも。

この水鉢(っての?)も。

1999.7

1999年7月の落雷を今でも覚えているのは、祖父のお墓が直撃を受け、墓石と岸信介の弔辞が刻まれた碑が粉々になったから。ノストラダムスの恐怖の大王はここに降りたのねと思った。