UOUO(うおうお)


9.2.23



井野「会社、1週間休んだんだよ、この人。この絵本描くために」
迫川「クエイフだよ、そのときは。クエイフって絵本は、そこまでして作ったのです。それを人にちょっと批判されて店長が破って捨てちゃった」
井野「そうだっけ。まあ二人で本気で絵本作家目指してたわけです。何作か残ってるのもある」
迫川「この話はオフレコだからね、会社に内緒」
井野「会社って、もうないんじゃんその会社」
迫川「そうだった。東京駅でお土産買って出社したんだけど、何かみんなみょうによそよそしくて」
井野「ばれてた?クエイフはボツにしたけど、クレヨンハウスのコンクールに応募して、二つ入選した。そのうちの一つがこのUOUOです。どっちも今見ればあまりにも他愛ないね」
迫川「絵本作家にはなれなかった。だって、このウツボの絵すらなかなか描けなかったもん」
井野「怖い~!!って。ばかか?(笑)。可愛いものばかり描いてても作家にはなれんぞ!とか俺コーチみたいに叱咤激励して」
迫川「若かったね」
井野「まあまあまあ若かったでなんでもすむわけじゃないけど」


誰にでも隠したい過去はありますよね。でも最近、気持ちが妙にオープンになってて。写真とベルクを始める遥か以前、一瞬の気の迷いですが店長と絵本作家をめざしたことがあります。習作がいくつか残っておりましてその一つ。うおうお。いい思い出もあります。当時、クレヨンハウスさんの絵本コンクールにこれ出したらはずみで入選しまして、画家の宮いつきさんとはその時の祝賀パーティーで初対面だったのですが、いきなり飲み明かし語り明かしました。


(迫川)


まる〜くお洒落
(80年代の迫川尚子‥髪の長いほう)


9.8.7






●なに、まるくおしゃれって。

○DELICAのキャッチコピー。80年代の。その頃、DELICA(熊田商事)は、子供服の布地のトップメーカーでした。

●ああ、迫川尚子は最初、そこにテキスタイルデザイナーとして就職したんだっけ。

○迫川がいた頃は成長期で、自社ビルを建てる勢いだったらしいですよ。

●聞いたことある。ビルを建てたから節約しなきゃってことで、広告のモデルも自社の社員を使った。

○それが、これです。

●あ、これ。

○これ。

●これ。

○迫川尚子がモデルしている。同じ熊田の社員と二人で。

●なに、実際、これ、使われたの。

○使われたらしいですよ。繊維新聞という業界紙で。

●あ、ほんとだ。そんな豊かな素材をおとどけするテキスタイルコンバーター、って書いてある。

○その熊田という会社も、今はないそうです。時の移り変わりですね。






あまりにも昔のことなんで、恥ずかしさを通りこしてます。だって、これ、もう自分じゃないもん。

(迫川)



ま、歴史的資料ということで。

(井野)



歴史…。

(迫川)


歴史といえば、この人にデートを申し込もうと決心し、仕事先に電話したのが、ちょうど上の解説にもあるように、熊田が自社ビルを建てた時で、引越しの最中で、それどころじゃないという感じだった。

(井野)



そうそう、ブルース・スプリングスティーンのコンサートに行こうって。実はあんまり興味なかったんだよね。行ったら、人生変わる、行かなかったら、一生後悔するって脅されて…

(迫川)



あの頃は、携帯がなかったし、自宅に電話してもお父さんが出て取り次いでもらえなかったし、職場に電話するしかなかった。

(井野)



結局、根負けして、行ったんだけど、行ってよかったよ。

(迫川)



ボーン・イン・ザ・USAツアー。スプリングスティーンが一番、脂ののっている時期だったしね。

(井野)



本当に、人生、変わった。

(迫川)



あれに行かなかったら、今のうちらはないし、今のベルクもなかったろうね。

(井野)



ところで、上の●と○は、誰と誰なの?

(迫川)



さぁ。歴史学者たち?

(井野)



歴史…。

(迫川)





音楽 by 井野朋也

写真元年 1988 
岩手の旅


10.8.24



1988年。

岩手県の種山が原を撮影中、迫川尚子は写真に開眼した、と言われています(勝手に)。そのときの写真が出てきました。ムービーでご覧下さい。まだ写真家という意識はなく、記念撮影のノリですが(と言いつつ今とあまり変わらない気も…)、後からふりかえると、種山が原で撮った写真の中に、決定的な1枚があったそうです。どう決定的なのかは「来た!」とか何とか意味不明な言葉しか聞きとれないためよくわからないし、その写真だけどこかに大事にしまいこんだのか、見つからないのですが(発見され次第、アップしますね)、とにかくそこから始まったんだそうです(急になげやり)。

ご覧いただければわかりますが、『春と修羅』に心酔していたわたしたちは、「賢治の旅」という名目で、岩手に遊びに行きまして、宮沢賢治ゆかりの地をまわりました。よく見ると何枚かの写真にオレンジ色の光線がうつっているんですが、それは賢治だ!と私たちは信じて疑いませんでした。賢治の生家では、弟の清六さんをちらっとお見かけしました。

(井野)


写真 by 迫川尚子
音楽 by 井野朋也




種山ヶ原

深い写真ですね。印象強かったのか、昨夜この景色の中を主人と歩いている夢をみました。ここは霊界?まさかね。でもいい夢でした。(まさこおばさん)


なるほど!いや、確かに不思議なところでした。天気がめまぐるしく変わって。蜂がぶんぶん頭のまわりをまわってて。賢治の作った種山ヶ原の歌を歌いながらうろうろさまよったら、足元にアザミが二つ咲いてて。その二つのアザミの間を歩いていったら、種山ヶ原の歌の碑があったんです。(ともや)


わー。いい思いをされたのね、善光寺のお坊さんの話によると、供養をしていると、魂が蜂となって飛んでくるけれど、刺さないとのこと。朋ちゃんの歌につれられて、賢治の魂が喜んで、蜂となってきたのかも・・(ま)


ああそうか。その時だけは不思議と刺される気がしなかったんです。実はここだけの話、賢治の霊にずっと案内されてる感じがしました。写真にも何枚かうつってて…オレンジの光が…勝手にそう思ってるんですが。
バスから降りたものの、もう途中で帰り道がわからなくなってしまい(観光地ではないので)、日も暮れてくるしさすがにどうしようと思ったら、すーっと車が来て、乗せてくれたんです。知らない人が。もうそんな行き当たりばったりの旅でした。何とかなったのは賢治のお陰でしょうか。(と)


いい話を聴いて嬉しいです。死者は供養してほしくて、純粋な心を持 っている人のところに現れるといいますものね。歌を歌って貰って賢治も嬉しかったのでしょう そのお礼かも(ま)


こちらこそ、話を聞いて下さってありがとうございます。急に色々思い出しました。(と)




種山ヶ原の 雲の中で刈った草は どごさか置いだが 忘れだ 雨ぁふる 種山ヶ原の せ高の芒あざみ 刈ってで置ぎ忘れで 雨ぁふる 雨ぁふる 種山ヶ原の 霧の中で刈った草さ わすれ草も入ったが 忘れだ 雨ぁふる 種山ヶ原の 置ぎわすれの草たばは どごがの長根で ぬれでる ぬれでる ……


1O5時代(1986-1989)


10.9.7

今さらですが、このムービー、あまりにプライベート過ぎて…公開していいものやら悩みつつ、歴史的資料(何の?)ということでお許し下さい。街に公衆電話が点在したり、駅の改札が自動でなく駅員さんだったりしますので。


この85、6年から89年あたりまでを、私のアジトだった部屋のナンバーから1○5時代と呼んでいます(ここで私は絵を描き、ピアノを弾き、ウィスキーを飲み、ご飯を食べ、ワープロを打ち、テレビを見…)。迫川はテキスタイルデザイナーから出版社に転職、私は学習塾の講師をしていました。週に2回デート、週中と週末。5年近く続いた半同棲生活でしたが、「一緒に暮らしちゃったほうが楽じゃん?」と同じ中野のマンションの401号室に迫川と私、猫のミャンとそろって引っ越したのが80年代の終わり頃。もし30を越えていたら面倒臭かったのでしょうが、勢いで同居が始められるギリギリの年齢だったのかも。そして90年にベルクがオープン。がむしゃらの30代に突入するのです。


しかし、88年(岩手旅行)を一応迫川の写真家としての開眼の年としていますが、その前から(携帯もデジタルもないのに)かなりあちこちであれこれ撮りまくっていますね~。

(井野)




写真 by 迫川尚子、井野朋也
音楽 by 井野朋也















photo. by Naoko Sakokawa
music by Tomoya Ino




私たちの青春は酒場にあったようなものだが、懐かしい場所は全部なくなった。辛うじて残っているのが、高円寺の「ネブラスカ」という小さなバー。そこももう25年の歴史があるが、その前が「時代屋」という別の店主のお店だった。そこで迫川と私はすれ違っている。それからとんでもないことが起こって‥(井の頭事件)。
まあ、青春というのはとんでもないことばかり起こるものだ(それがなければ今もない)。その高円寺の思い出のバーがネブラスカになってからは、一回しか入っていない(朝型の生活になったため)が、その前を通る度、あのとんでもない頃が蘇る。左がそのお店の映像。当時の私たちがそこにいるようだ。

若い頃、私は街中を一人でほっつき歩いていた。生まれも育ちも新宿、免許を必要と感じたことがない。一方、迫川は、クルマを運転する男としか付き合ったことがない。最初のデート、私が(新宿から大久保まで)一駅歩こうと誘ったら、返事が「歩くって、何?」「きっと君、写真向いてるよ」とかなんとかテキトーなこと言って、迫川に(歩かせるために)カメラを持たせたのは私だ。
渋谷文化圏のテキスタイルデザイナーと中央線文化圏の引きこもりオタク。酒の勢いでデートすることになったが、何の接点もない。そこで選んだのが、二人にとって異界の左翼系集会だった…。それはいいとして、写真を見たら講演が高木仁三郎さんだった。

(井野朋也)

ライターの石丸元章さんに「迫川尚子さんは若い頃、どんな感じだったの」と聞かれ、「10代の時から知ってますが」と言いかけたら軽くひかれた。頭の中に「淫行」の二文字でも浮かんだのか?いや確かに私は還暦に近いが、その時は私も10代だから!生まれたのは迫川より半年早いだけ。つまりほぼ同い年。付き合い始めたのは20代半ばだけど、私は学生で彼女は社会人。つまりあらゆる点で私よりずーっと大人だった。彼氏もいたし、言い寄る男もいた。でも口癖が「どこかにいい男いないかな」どこか謎めいて魅力的だけど、近寄るのは危険と用心していた笑。ディランのジャスト・ライク・ア・ウーマンを聴くまでは。つづく?

当時の迫川をあえて漢字二文字で表現すれば「不良」。実弟も「尖った姉」というイメージしかなかったとか。ベルクのバイト希望で面接に来たら即お断りするタイプ笑。間違っても来ないだろうが。実際にベルクを一緒に始めた時も、接客業じゃチャラチャラした格好出来ないとタダこねた。すりゃいいのに。なぜそんな「不良」で「尖った」迫川が私たちと一緒にベルクを始めたか?意外と興味を持つ方もいて、実際「週刊女性」'12年12月18日号の記事(全6頁)にもなった。読者モニター・アンケート調査では「面白かった記事」の何と第2位に選ばれた。並み居る芸能ゴシップ記事を押しのけて…。どういうこと?