11.9.2

ベルク店長、下北沢へ part.1

9.9.8




ベルク店長、下北沢へ part.2

9.9.9



11.9.2

シモキタヴォイスに参加して


下北沢では、再開発の見直しを求めるコンサートやイベントが頻繁に催されいます。一方で、外野からは冷ややかな視線が注がれているとも言われます。単に内輪でお祭り騒ぎしているだけじゃないか、と。それは私たちも似たようなものかも知れません。ベルクでは、昨年から家主のルミネさんに向けて、お客様とともに営業継続を求める署名活動を展開しています(シモキタに比べると、華やかさには欠けるかも知れませんが)。ベルクの場合、大企業対小さなお店という図式がわかりやすかったのか、メディアの取り上げ方も好意的で(書き手が皆さん、ベルクの常連さんでしたし)、外野の視線もどちらかと言えば同情的ですが、家主とテナントによる「出ていけ」「出ていかない」の押し問答は、ベルクを全く知らない人には、しょせん、内輪のお祭り騒ぎに過ぎないでしょう。
それでも、私たちがこの問題を公表したのは、二つ理由があります。一つは、密室で家主とやり合うだけでなく、お客様にも店の進退について問いかけたかったから。もう一つは、立ち退きが…地権者・借家人・テナントの違いはあっても…誰の身にふりかかってもおかしくない問題だったからです。私も「立ち退き」なんて物騒なものがあることくらい知っていましたが、しょせん、無関心、高みの見物でした。が、テナントとして我が身にふりかかった時、急に切実になりました(そんなものです)。ケイレツ店のようにネームバリューのあるお店は、まだ場所に縛られずにやれます。その分、切実さも薄いでしょう。ケイレツでなくても、逆に裸一貫とか、風来坊的生き方に憧れてしまうほど、お店って…特に個人経営の飲食店の場合、長年やると実感しますが、その場所に根をはる形で人との関係や自分のスキルを熟成させる職業なんですね。農家もそうですが、その土地に根ざして生活を営む、いわばその場所から不自由な人たちにとって、立ち退きは人生のやり直しを迫る大問題(大迷惑)です。「他でやれば?」という声が私たちのところにも寄せられますが、あまり気軽に言わないで~というのが正直あります。
とにかく、立ち退きは今どこにでも起こりうる問題です。その時に、立ち退かせる側は、それなりに準備もできているでしょう。情報交換もしているはずですが、立ち退かせられる側は、まさに青天の霹靂。完全に孤立している場合が多い。だから「公表」には、同じ目にあわされたもの同士の情報交換という意味も含まれています。こちらも情報を握っておかないと、とても勝ち目がない。やはり、公にするからには、内輪の問題にとどめず、他の問題にもつなげたい。それで今回、シモキタヴォイス2009ともつながれた訳ですが、立ち退きが原則的に再開発(都市計画)の論理で進められる以上、こちらも都市のありようについて考えなければなりません。個人的には、都市なんて計画的に作っても全然面白くない、自然にまかせた方がいいと無責任に思いますが、真面目に考えれば、交通の問題もあるし、計画そのものを一概に肯定できないにしても、一概に否定もできない。むしろ問われるべきなのは、大木雄高さん(シモキタヴォイス実行委員長)も強調されているように、計画のありよう、その進め方です。計画を進める人たちが必ず口にするのが、もう決まったことだからとか、今さら覆えせないとか、計画そのものの正当性より、そうした「既成事実」ばかりなんですね。充分に議論されないどころか、進める側から何ら具体的な説明もないまま(それはルミネさんも同じです)ゴーインに進められる。それに対して私たちはとりあえず「待った」をかけているだけなのに、事情もよくわからない人に「反抗的」とか「お祭り騒ぎ」ですまされるのはちょっと悔しいですね。
シモキタの「お祭り騒ぎ」に対して、私の周囲で説得力があるとされる批判は、「住民が反対するならまだわかる。住民でもないのに、下北沢に思い入れのある人たち(若者や文化人?)がシモキタを守れと再開発に反対するのはおかしい」…でした。さて、私たちは、シモキタのどこに思い入れがあるのでしょうか?街並み?青春時代?(東浩紀さんの言う「ノスタルジー」?)色々あるでしょうが、一言で言えば、個性的な商店がごちゃごちゃ集まる、あの独特の雰囲気だと思います。今回のシモキタの計画では、まさにそこが軒並みやられます。私が一番気になったのは、当のお店の人たちはどう思っているのかということです。商売上、発言したくてもできないのではないか。今回、大木さんとお会いして、初めて、昔からのしがらみで多くのお店が思うように発言できない状況にあるのを知りましたし、シンポジウムで石本伸晃先生(シモキタ訴訟弁護団)がおっしゃったように、そもそもお店(テナント)には発言権が認められにくいという法的な問題もあります。お店って、こういう問題でも背景に押しやられるんですね。その場所に根づいて(義務も負って)生活しているという点では、住民と同じなのに。
今回のシンポジウムに関しては、下北沢を守るというより、テナントの利権を守りたいだけじゃないの?という批判もあったようです。また、住民は必ずしも再開発に反対ではないとか、住民は下北沢の個性的な商店街を快く思っていないとか、攻撃の矢が何となしにお店に向けられている(一見、住民主体のような)発言もネットで見かけました。シモキタヴォイスの主催者の一つが下北沢商業者評議会ですし、このシンポジウムもお店主体の色合いが濃かっため(何しろ、タイトルが「『個人経営の店』という文化?」でした。それで私も呼んでもらえました)、住民対お店という図式に回収されてしまったのかも知れませんが、ツッコミどころはありす。まず、テナントの利権って何?一度でもお店をやればわかりますが、どんなに繁盛しても笑いが止まらなくなることはありません。出ていくものも多いからです。金は天下のまわり物というまさにその感覚です。それでもお店を続けるのは、利益以外に価値(生き甲斐)を感じるからです。それから、住民って誰?誰が代表するの?もし仮に、住民の中にお店の騒音なんかで悩まされている人がいたとしたら、それはそれで問題でしょう。下北沢はお店と住宅が隣接する街です。個別にそういうことが起こらないとも限らない。でも、それでいきなり下北沢に個性的なお店はいらないと排除の論理が働くとしたら、いくら何でも行き過ぎです。共存の道を探りましょうよ、と部外者の私でも口をはさみたくなります。ここでホームレスを引き合いに出すのは不適切でしょうが、新宿で行政によるダンボールハウスの強制撤去があった時に、私たちはベルク通信やミニコミ誌で「ホームレスを排除すればそれでいいのか?」と呼びかけました。私たちだって、店先にホームレスが寝ていて障害になればどいてもらいます(もちろん、ガードマンを呼ばずに直接、声をかけますが)。ある意味、矛盾しています。ただ、それはそれ、これはこれです。矛盾を回避しようとするあまり、自分の立場を一元化してしまうと、色々な可能性を閉ざしてしまいます。
お店が商売以外のことで声をあげるって、勇気のいることなんですね。どうあげたらいいかもわからないし。私は、自分たちの経験がいつかどこかで誰かの役に立つかも知れないと思い、なるべく事細かく残すようにしました。そういう壮大な気持ちもありますが、問題は依然未解決のままですので、追いつめられた気持ちもあります。私たちの声の中には、ほんの少し、悲鳴も混じっています。助けてぇ~!という。いや、本来、ホームレスもテナントも「声なきもの」です。声をあげられる立場にはいません。その中で私たちが声をあげられたのは、本当に沢山のお客様とメディアの応援があったからです。普通、ドン引きされるでしょう。今の日本じゃ例外的なケースなのです。そして、私たちが声をあげるずっと前から、シモキタヴォイス(下北沢商業者評議会)は声をあげていました。そのことに私は大変励まされました。
誰が何と言おうと、声をあげなければ何も始まりません。その一点だけでも、私はシモキタヴォイスの試みを断固支持します。




ベルク店長
井野朋也




下北から問う!日本の都市計画

9.9.20




ラヴ・シモキタ!

9,9.25


三脚使わず、
3台のカメラを同時に抱え
撮影したものですから、
シンポジウムも終盤戦、
そろそろ限界が、
映像には現れています。
写真は半日で撮りおろした
シモキタの街です。

迫川尚子


2009.9.6(日)


写真&映像 by 迫川尚子
音楽 by 井野朋也(shimokita2009)













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東浩紀にもの申す

「時代を斬る 若手対談」ということで、『週刊朝日』1月22日号の東浩紀と宇野常寛という2人の批評家対談を期待して拝読した。正直、肩すかしだった。要約すれば、タイトル通り、ゼロ年代には希望があった、10年代はそれを形にする時代だ、ということになろう。前向きな優等生的発言である。これなら小学生でも言えるか?論評ではなく、軽い対談(仲良しどうしの?)形式であるため、私が求め過ぎなのかも知れないが、批評家ってこういうもの?とつい思ってしまった。そこにはあまり発見や驚きがないからだ。その方面にうとい私も、お名前だけは存じ上げているので、お二人ともきっと今をときめくスターなのだろう。でなければ、わざわざ記事にする内容だろうか。お二人のおっしゃることは、いちいちごもっともだ。要するに、現状を受け入れるしかない、現実的に考えよということだろう。私も飲食店の店長だが、若いアルバイトにこのような(言うまでもない)ことをたまに言う。私自身、親にしょっちゅう言われたことだ。今、批評家に求められるのは、こういうお説教オヤジ的役割なのだろうか。

一つ気になったのは、いわゆる左翼的言説(「自由」とか「平等」を標榜する戦後民主主義もそこに含まれる)を仮想敵(旧弊)と見なし、俺たちが息の根を止めてやると息巻いているように見えることだ。あなたたちがわざわざ手を下さなくても、左翼的言説は(たぶん、右翼的言説も)もう息を引き取っている。いくら槍で勇ましくつついても、死んでいるものは死んでいるのである。それでもトドメをさしたければ、どうぞご勝手にと申し上げるしかないが。


私が東浩紀の名前を耳にしたのは、私たち「ベルク」が駅ビルから立ち退きを迫られ、一時ちょっとした話題になって(世間をお騒がせして)、メディアの取材も相次いだが、そこである記者の方から、下北沢の再開発問題が東さんの「(立ち退き反対は)ノスタルジーに過ぎない」という一言で決定的に色あせたため、その文脈でベルク問題を取り上げるのはかえって不利かもと忠告(と言うか相談)を受けた時である。恐らく、その言葉だけが一人歩きしているのだろうが、私たちは「ノスタルジー」で店をやっている訳ではない、と納得のいかない気持ちになった。

その後、下北沢の運動にほんの少しかかわり、テナントの事情は何ら考慮されないまま、強引に計画が進められようとしているのを知った。それに対して、とりあえず「待った」をかけているだけなのだ。現場って、そんなものだ。私たちも、突然闇雲に「出ていけ」と言われ、「はい」という訳にもいかず、そのままにしておいたら、また「出ていけ」「なぜ?」「出ていけ」「出ていかない」の押し問答である。そんなレベルの闘いなのだ。高尚な理念がある訳ではない。お客様も、うちがなくなると困るから応援して下さるのである。「ノスタルジー」とか「社会的弱者」なんて言葉が入る余地もない。古き良きものを残せとか、弱者を守れとか、私たちにしてみれば尾ひれのように付いてくるスローガンに過ぎない。もちろん、それに助けられることもある。ただ、少なくとも当事者のものではない。

東さんは、その尾ひれに左翼的匂いを嗅ぎとり、噛みついたのではないだろうか。しかし、それは当事者から見れば、しょせん、外野席でのヤジの飛ばしあいでしかない。それでも別に構わないが、私が一番ひっかかったのは、そのことについてホームページでちょこっと触れようとしたら、2人の信頼すべき出版系編集者から、ほぼ同時に、「東浩紀を敵にまわすな」とやんわりストップをかけられたことだ。私の書いたのは、東批判ですらない。東浩紀という人は今、どうやらメディア(の現場のディレクタークラス?)に注目されている人のようなので、もう少し発言に配慮があってもよかったのではないか、という非常に慎ましやかなものだ。私も、繰り返すが、この(言論の)方面にうといため、とりあえず専門家の意見に従おうとその時は表現をぼかした。ただ、ここまでビビって自主規制しなければならないほど、東浩紀というのはおっかない(影響力のある)存在なのかとも思った。

例えば、この対談の中でも、最低限生存を保障するため、納税者番号を導入して所得を正確に把握すべきだという東さんの発想は、思いつきレベルであるにしても興味深い。が、紙面の制約もあろうが、それが「左翼的な言説では監視社会で危険となってしまう」と左翼攻撃に向かって終わるのが惜しい。そちらに主旨があるように見え、せっかくの東理論の可能性がかえってぼやけるのだ(生存保障に関するちゃんとした論文があるなら、読みたいが)。

うかつな発言はひかえろ、などとお説教をするつもりはない。ただ、東さん、左翼的言説はもう死んだのだから(精一杯見積もっても瀕死)、そんなものはほっとけばいいのに。私たち運動にかかわる人間にとって、東さんのような言論の人は、あくまでも傍観者である。それはそれでいい。むしろ傍観に徹してほしい。左翼的な尾ひれもこの際気にしないでもらいたい。そして、東理論を心ゆくまで追求してほしい。

井野




批評家とは


『東浩紀にもの申す』という文章を先日(1月28日)、こちらに(衝動的に)のせたところ、東さんご本人からお返事をいただきました。

ご意見、真摯に受け止めました。下北沢の件、ぼくの発言が「圧力」として機能していたというのは初耳で、戸惑っておりますが、結果としてご迷惑をおかけしていましたならばお詫びいたします。今後ともよろしくお願いいたします。

いや、あんなタイトルにしてみたものの、実際に東さんにお読みいただけるとは思っていなかったので、正直ビックリしました。そして、その誠意ある対応に、感謝するやら恐縮するやら。さっそく、うちのスタッフに報告したところ、みんなの反応は、最初「東浩紀?だれ?」でした。

「ほら、店のカウンターに置いてある『早稲田文学』の表紙で、快活そうな娘さんと一緒にうつってる写真あったじゃん、撮影が篠山紀信さんで」と説明しても、みんなそれどころじゃない。でも「誰だか知らないけど、批判にちゃんと答えるなんて、エラい」とスタッフ間で、東さんの株は急上昇(と言うか、さっさと一件落着にしたかっただけ?)。「批判なんて、とんでもない。ちょっと喧嘩腰だったかも知れないけど、あれは私なりの東さんへの(勝手な)エール。だからご本人に何かしら響いたとしたら、やはり嬉しい。もしかしたら、批評家という言葉が東浩紀の何かに触れたのかも知れない。日本における批評家は小林秀雄以来、独特の位置にあって…」と調子にのって解説を始めると、みんなすでにゲンナリした顔で「そもそも、店長はその人にエールを送っているヒマなんてあるわけ?」「インテリの考えることはようわからん!」とブーイングの嵐。私も意地になって「いや、インテリにバカにされる存在なんだよ、批評家って!」と訳のわからんフォローをしたりして(フォロー?)。そりゃ、批評家にとっちゃ本を読むのも仕事のうち、私たちに比べたら知識もはるかに豊富でしょうが、いわば保証書付きの知識をウリにするのがインテリとすれば、それにとらわれずフットワークのよさ(トライ・アンド・エラー)で勝負するのが批評家なんだ、とわかったようなわからないような解説をまた続け…。


でも、「批評」は元々「criticism」の翻訳で、語源が「crisis(危機)」です。やっぱ、どこかあぶなっかしいのでしょう。いわゆる評論とも違う。確固たる評価基準があって論じるのが評論とすれば、むしろ、批評はあらゆる評価基準を疑うところから始まる。いつ割れて落ちるかわからない、薄氷をふむが如し。まあ「勝手にやってれば?」なんですが(今回も、東さんなんてほっときゃいいのに、という助言を周囲から多数いただきました)、日本ではなぜか小林秀雄以来、江藤淳、吉本隆明、柄谷行人といった有名批評家が次々に現れ、バカにならない影響力を持ってきたのです。結果的にであれ、人々の伝統的な考え方や固定概念を解きほぐしたり、壊したりした。私の父(ベルク創設者)も愛読した元祖小林秀雄なんて、国民的ヒーローでしたもん。今じゃ信じられない話ですが。批評家はある時期まで、いい意味でも悪い意味でも刺激的な存在だった(毒にも薬にもなった)。言わば、知のトレンドだったのです。そういう意味で、東さんも批評家の末裔なんじゃないか、と思います。じゃあ具体的に何をどう論じるのが批評か、と言うと(一応、文学が基本にあるようですが)、一人一人の批評家が、いや、一つ一つの仕事がその切り口からして独創的と言おうか突発的と言おうか、内容も文化・芸術から社会・政治にいたるまで多岐にわたっていて、一貫性や共通性には欠けるようです。まあ影響力ということを抜きにすれば、批評家は言論における月影兵庫、剣の腕前(実力主義)で生きる素浪人。だから、一介の飲食店の店主に過ぎない男のふりかざした剣も、さっと受ける。カッチョエエ。(むしろ権威になったら、批評家としてはおしまいなのでしょう。)

東さんからご返答があったこと、シモキタのテナント関係者にもさっそくお知らせしました。みなさんの想像以上の驚きように、あの発言へのわだかまりが垣間見られました。中には、東さんにもっと早く直に確認すべきだったという声もありました。確かに、知らず知らずのうちに何かを勝手に標的に仕立て勝手に盛り上がってしまうことってありますね。酒の席での、いない上司の悪口大会みたいに。でもそれは所詮、ガス抜きの類であって、何の広がりも期待出来ないし、可能性もないように思えます。東さんの論じてられるのは、行政寄りに見える都市論にしても、再開発をできれば止めてほしい私のような立場の人間でも目からウロコ的なところがあります。やはり、気になる批評家なのです。ただのガス抜きに使うのはもったいない。そんな色々な思いがブレンドされ、衝動的にあの文章を書いてしまったようです。お騒がせ致しました。

井野





ベルク店長インタビュー「 インディーズその可能性の中心 」

再開発で一つの店のみならず、一つの町が消滅することもあります。一度なくしたら、二度とその風情は戻らない。うまいこと残せないか、守れないかという議論が活発化する一方で、そんなのはノスタルジーに過ぎないという東浩紀さんなどによる痛烈な批判もあります。
「私も取材で聞かれたことがあります。どう思いますか?と。いや、どうもこうも、うちはノスタルジーで続けている訳じゃないし」
困っちゃいますよね。そんなこといわれても。
「よその土地に行って、たまたまそこの風景が気に入って、守るべきだと思っても、それは旅行者の勝手な感想でしょう。守るというのが、そもそも当事者の発想ではない気がします。それより、ベルクならベルク固有の問題、契約の問題とか駅や町のあり方を考えるべきだと思います」
反対運動がわりと盛んなところでも、地元商店の声があまり浮かび上がってこない。そういう状況でも、お店の人は声をあげにくいのでしょうか。
「まあ複雑でしょう。私自身、ベルクが立ち退きの店で有名になるのはベルクに対して申し訳ない。お店としては、そういう運動でなく、商売で盛り上がりたいのです。でも追い出されたら商売そのものができなくなる。というジレンマもあって」
町や店を守ろう、いや、それはノスタルジーだという議論自体が野次馬どうしのののしりあいのような気もします。少なくとも、当事者であるはずのお店は声をあげられずに蚊帳の外にいる。そういう状況に対する配慮が、やはり東さんには足りなかったのでは?
「そうですね。でもまあノスタルジーという言葉が、一人歩きしているだけの気もしますけど」
ところで、出版関係者有志が運営する勉強会「でるべんの会」で、店長は「店に個性はいらない」と主張していましたね。…考えなくていい、でしたっけ?それが東浩紀さんの、町に個性はいらないという発言とどこかダブるんですが。
「通じるかも知れません。海では海のものを食べる。山では山のものを食べる。そうした地域性は大事ですが」
ベルクは、駅という目的も行き先も異なる人たちの交差する場の特性を生かした店だ、と店長はよくいいます。それは個性とはまたニュアンスが違うのでしょうか。
「個人店は『個性』と思われがちですが、商売する身からすれば、本場の味!とか、個性的なセレクト!とか、あくまでもキャッチフレーズに使う語句の一つです。それ以上に、この言葉にとらわれない方がいい」
東さんも、客の立場から店に個性は求めないみたいなことをおっしゃっています。コンビニでいいじゃん、と。
「そういえばあるブログで、ベルクは女一人、店主に気に入られなくても当たり前に飲めるのがいい、と書いてありました。確かに、女性だろうが老人だろうが、人間関係や自分の属性を気にしなくていい気軽さや便利さがコンビニ的ですね。スタッフは私も含め、黒子に徹している、というか徹しざるをえない」
ひたすらテキパキ回転してますもんね。コンビニとの違いは、商品へのこだわり方かな。あとベルク本にも書いてありましたが、本部が外にないこと。といって、内輪的な雰囲気もない…。
「そうですね。スタッフは皆黒子。お客様は皆身元不明人(笑)」
でも駅もそうですが、ベルクのような不特定多数の人が集まる場所って、怖くないですか?
「何が?」
突然、危害を加えられたりとか…。
「身の危険を感じたことはこの19年間一度もないです。気づかなかっただけか?(笑)でも人間って、お互い顔が見えないと妙に暴力的になりますが、ベルクのような狭い空間で肩を寄せ合りあいながら美味しいものを食べていると、自然と譲り合いの精神が生まれるんです」
ベルクミラクルですね。
「それにベルクのような店を使うって、お客様の方も気軽なわりに熟練が必要だったりする。まずは常連さんの見よう見まねで…」
お客様とお店が共に成長する。ベルクの場合、いつでも初回客が入ってきますし、殺伐ともなれ合いとも違う、独特の緊張感と親和的ムードが漂っていますね。
「いくらネットが発達しても、人はベルクのような場所に集まってくるのではないか」
ベルクは、本当の意味でのパブだと思います。単にパブ風という意味じゃなく、店のあり方がパブ。日本語に訳すと公共の場。店長が敬愛する赤羽のまるます屋さんも、洋風じゃないけど、パブですね。
「そうです。パブこそ個人店向きだと私は思います」
どういうことですか?
「公共物ってガスにしろ電気にしろ、使用法は使用者が決めるでしょう。ベルクもそういうところがある。朝からモーニングもビールもおつまみも用意して、あとはお好きにどうぞという」
それが個人店向きというのは?
「個人店?」
いや、店長が今いったじゃないですか。パブは個人店向きって。
「『セブンイレブンの正体』(古川琢也著)という本を読んでいて思ったのですが、コンビニも個人店なんですよね」
ああ。お店自体は個人経営です。フランチャイズ契約を結んでいるだけで。といっても、実質的には本部に従属することになるし、切られる時はすぱっと切られますが。契約社員や定期契約に似ている。
「うちのように本部がないというか、現場が本部というべき個人店は、フランチャイズと区別してインディーズと呼ぶべきなのでしょう」
確かに、チェーン店やフランチャイズなんかだと、そのくらい融通つけてよ、目の前の私よりマニュアル優先?といいたくなることがあります。ベルクのような個人店は、決定権を握る経営者が現場にいます。様々な駅利用者に対して、臨機応変に応じられる。都市開発問題を追うジャーナリストの清野由美さんも、朝日新聞の書評欄でベルク本を取り上げ、<今、世界の大都市はビル街の足元に、低家賃で個人商店を導入する時代。個人商店はすなわち時代の最先端にある。効率至上で行きたいのなら、むしろ個人商店の価値にこそ気付くべきだ>と書いてらっしゃいます。
「例えば、ベルクでは職人の手作りだけでなく、ビールのような大量生産の食材も扱っていますが、ちょっとした異変にスタッフは即座に反応します。毎日飲んでいるから。もちろん、どんな食材にも味のブレはあります。ただ、止める程じゃないけど、ブレの範囲を越える微妙な変化というのがたまにあるんです。それは見逃せない。何かの合図かも知れないですから。メーカーの説明が、『原材料も工程も変わらない』だったとしても、私たちは自分の味覚の方を信じます。だからメーカーだって、味覚で応じてほしいですが、組織の場合、公式コメントみたいなものがあらかじめ用意されていて」
絶対に認めない?
「いや、さすがにベルクの意見は尊重してくれるようになりました。時には公式以外の情報を漏らしてくれることもある。原材料も工程も変わらないが、工場が変わりました、とか(笑)」
決定的な変更じゃないですか!(笑)
「そうとわかれば、味がなじむまで多少時間がかかりますから、こちらもガス圧など調整して様子を見ようと前向きになれます」
大手といっても、現場は個人(醸造責任者)が体はっているんですもんね。でも、職人とは直接腹を割って話せますが、企業はなかなかそこまでたどりつけない。とは言え、長年の信頼関係によって、その壁も徐々に崩れてきているのでしょう。ルミネさんとの関係もそうなるといいですが。
「あと、フランチャイズやチェーン店は新しく商品を増やすと、売れない商品を削るでしょう?うちの場合、現場スタッフが開発段階から関わっているから、愛着があってどれも削れない(笑)」
なるほど。だからあんなにメニューが多いのか。さすがに効率悪くないですか?
「一日に一個しか売れない商品も、目当のお客様がいらっしゃる」
スタッフの未練がたった一人のお客様を救う(笑)。ただ食材の場合、ロスの問題があるじゃないですか。
「仕入れや仕込みを小まめにやれば、ロスは出ません」
そこまでなかなかやれないのでは。長年の経験やカンがものをいうのでしょうか。
「愛があれば、さほど苦にならない(笑)」
それに関しては、実際に苦労しているスタッフの皆さんの意見も聞かないと何とも言えませんが(笑)、チェーン店やフランチャイズでは考えられないようなことが、ベルクでは日々起きているのでしょう。そう考えると、ベルクはリーズナブルなお店ですが、贅沢な店でもあります。それで商売が成り立つなら、誰も文句はいえない。文句をいっているのはルミネさんだけか(笑)。
「文句すらおっしゃらない。ただ、出ていけと」
呪文のように(笑)。

2009.9.6(日)

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左から石本伸晃さん、リリー・フランキーさん、仲俣暁生さん、平松昭子さん、ベルク店長井野朋也

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左から仲俣暁生さん、ベルク店長、毛利義孝さん

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